「成長産業」を羨むべからず
30年ぶりの「答えあわせ」
昨年の暮れに旧知の知人K氏に会いました。実に30年ぶりでした。K氏の人柄は変わらず、大した挨拶もなくいきなり本題(ビジネスの話)に入るのでした。待ち合わせたコーヒーショップの店員の対応の評価から始まり、懐かしモードの私は面食らってしまいました。
K氏のその店に対する評価は大変厳しく、早々に別のお店に移動して腰を落ち着かせるまで10分。30年分の要約を聴き終えていました。K氏は長らく香港に拠点を置いて中国本土で縫製工場を経営されていましたが、最近帰国され日本国内から遠隔で海外生産の仕事をされているとの事でした。
現地に展開された頃の中国は、人件費は格安であった代わりに縫製技術も未熟で相当なご苦労があったのですが、日本式の製造技術を指導・教育され、数十億単位の生産高にまで育てて来られたのです。
吉岡:「最近では香港も様子が変わってしまってますし、中国本土でも日系企業の人が捕まったという報道があったりするので、大丈夫かなって心配してました」
K氏:「確かに相当変わってきたよな。ここ最近」「安くて豊富な労働力を武器に、生産設備や技術を招き入れて経済発展してきた国もいよいよ隣国に持っていかれる立場になってるわ」「彼らは、これまでパクリ放題やったからパクられるのには慣れてへん」
吉岡:「人件費も僕がやってた頃からすると相当上がってますよね?30年以上ですもんね」
K氏:「上がったってもんやないよ。最近ではねー、それ以上に怖いのが労働争議。突然、集団で抗議したり、ネットに上げたりするのが厄介でね。そんなんなかったもん昔は」
吉岡:「そうですかー。中国ではネットに上げて広まらないと政府が動いてくれないので、横断幕つくって動画アップするんですよね?」
K氏:「そうそう。それが怖いねん」「政府が絡んできたりしてもまた厄介でね」「生産規模が大きくなればなるほど怖い。あとの挽回が難しくなるから」
↑香港上空から中国本土、深圳方面を望む(香港のK氏のマンションは、値段が何倍にもなったそうです)
↑香港暮らしが長かったK氏が、喫茶店店員の対応に厳しかったのは意外でした
K氏は短いセンテンスでどんどん喋ります。元々そういうテンポの人でしたが、英語や中国語で長年商売をされていますので更に磨きがかかっています。
吉岡:「やっぱり、地方政府が介入してきたりとか、賄賂よこせとか色々あるんですよね?」
K氏:「あるあるー。というより乗っ取りが増えてきたわ」「大きくなると、役人と銀行と現地幹部がグルになって乗っ取りに来よる」「最近では小さい会社でもあるわ」
吉岡:「えー。ここのところ、景気も悪くなってきているので怖いですね」
K氏:「日系企業だけでなくて中国企業もベトナムに工場移したりしてるからヤバいよ。これから」「だから銀行も回収できるうちにあの手この手で潰しに来よる」「場合によっては現地の役員を買収したりも平気でやるから、危なくなったら誰も信用できへん」
なんとも生々しい話です。外国から得るものがほとんどであった昔の中国とは違って、失うものが増えてきたという現実がひしひしと伝わってきます。私個人としてはK氏が言いがかりを付けられてしょっぴかれる前に日本に帰ってきてくれて、ただただ安心しました。しかし、印象的だったのはK氏の次のような言葉でした。
K氏:「吉岡くん、もう今時は君がやっていた頃みたいなアパレル産業の総合的な企画・生産技術は失われてしまったわ」「企画・生産を全般的にやっている会社がもうないねん。」「みんな商社みたいなもんや。会社は大きくても中身はハリボテやで。ピンハネで手っ取り早く儲かるほうにみんな行ってしもた…どこの国もバブルのあとはひどいもんやな」
その時代の「日常業務」
K氏とお別れしてから、私がアパレル企業でベビー・子供服の企画の仕事をしていた頃のことを色々思いましました。社会に出て初めての仕事でしたから印象深いことがたくさんありますが、その間たった5年足らずです。
もう30年以上前のことです。当時私の担当ブランドは生産数量が多く、すでに国内でのデリバリーが難しくなっていました。不可能ということではないのですが、生産数量の多い私の担当ブランドを国内の縫製工場さんにお願いしてしまうと他の数量の小さなブランドの生産が立ち行かなくなるという構図でした。
もちろん、縫製工場さんは生産数量の多いブランドの発注を待っています。しかし、縫製工場さんの意に反してアパレル企業は数量の小さなブランドの生産ばかりをお願いして、数量のまとまったブランドから海外生産に切り替えるということが始まっていました。
私たちのブランドは年間5回、翌年店頭で販売する商品サンプルをつくって全国で展示会を開催していました。百貨店・専門店のバイヤー向けの展示会です。量販店向けは価格政策の違いから、すでに完全別ブランドの展開になっていました。百貨店・専門店向けの商品は値崩れが怖いので、量販店には同じものを卸せないからです。いわば、プライベートブランドの走りです。
その展示会用の商品は極めて短期間で企画・試作・社内評価・修正・展示会サンプル製作というプロセスを経ていきます。年間5回の展示会ですから約2ヶ月強で一巡させなければなりません。しかも1ブランドあたりでもワンシーズン200アイテム、年間1000アイテムを超える物量でした。
そんなサイクルでしたから、展示会サンプルは海外の工場では間に合いません。展示会サンプルのみ国内の縫製工場さんにお願いして、毎回販売用の現物生産は海外工場に発注するといった阿漕(あこぎ)な商売をしていました。20代前半の新入社員にそのような不義理な事をされて、国内の縫製工場の経営者はさぞかし腹が立ったであろうと思います。にもかかわらず、仕事を覚えるのに必死の私には皆さんオトナの対応をしてくれたのです。
当時、新入社員ながらも海外工場のオーナーたちとの商談も多くありました。諸々のリスク管理の為、間にはに三井物産や三菱商事といった商社が入っていましたが、海外工場のオーナーたちは片言の日本語をあやつるタフな人たちでした。そして「お金持ち」でした。やっとかっとでやり繰りしている国内工場さんを泣かせておいて、こういう海外の成金みたいな人が儲けているなんて「こんなやり方はそう長くは続かないぞ」と確信をもって感じていました。
その後、アパレル業界は大再編の時代を迎えることになりました。K氏のように、多くの「猛者」たちは海外へ活躍の場を移していったのです。
↑海外の縫製工場内観(日本式のオペレーションは現在でも世界一だそうです)
「家業」における回想
そういえば、今更ながらに気づいた事が。アパレル時代から更にさかのぼる事20年、今からですと半世紀も前のことです。父が脱サラ(通じますか?この言葉)して家業として始めた鉄工所のことを思い出したのです。
家業ですから、私も小学生の頃から手伝っていました。いわゆる3K(「きつい」「汚い」「危険」)の労働でした。当時は高度成長期でしたが、サラリーマンをやっているよりずっと儲かるし、何より定年がないというのが魅力だったようです。なにしろ定年が55歳の時代ですから。
話はそれますが、日本における定年制の起源は明治時代の後期に一部の大企業で始まったのだそうです。その時代の平均寿命は、なんと43歳前後で安定していたそうです。当時は新生児の死亡率が15%と高かったことが平均寿命を極端に下げていたのです。新生児の死亡率を統計から除外しても、当時の実質的な平均寿命は50才という計算になりますから、55才は平均寿命よりかなり長いも のでした。文字通りの終身雇用だった訳です。
父の鉄工所では工業用ミシンの基幹部品を加工していました。私は大学卒業までちょくちょく手伝いに行っていました。今回の流れで何を思い出したか?というと「成長産業が海外移転される瞬間の変動」です。そういえば、鉄工所の加工品のロット(品番ごとの数量)は小学生の頃から大学生になるまでの間、減り続けていました。
脱サラ当時は、少し残業して頑張ればサラリーマンの収入を大きく超えることは造作なかったのだと思います。また、機械設備などは必要ですが比較的小型の旧式機械で可能、運搬などは軽自動車で十分でした。それほど大きな投資は必要なかったのです。創業時点では、工業用ミシンの製造はまだまだ成長産業だったのです。
その後、縫製工場の海外展開の波に乗り、日本製工業用ミシンの需要はさらに海外に拡がりました。しかし、やがてはミシンの生産そのものも海外生産にシフトすることになってしまったのです。父の鉄工所の加工数量が減ってきたのは、実のところ試作品のための加工が主体になっていったものと思われます。現物生産は急速に海外に移転されていったのです。
大学生の頃には少ない数量の加工が多く、ちょっと加工しては機械の段取り替えをしなくてはならなくなり、父ばかりが忙しく私は段取り替えの間ボーッと待っていたこともありました。これは、経営者としてはしんどい状況です。業種も立場も違いますが、最近のK氏や、自己のアパレル時代とも重なる変化だったのです。
成長産業ゆえにすごく儲かる時代もあるのですが、成長産業ゆえに廃れるスピードもものすごいものがあります。波打ち際の如く変化が早いのです。何も考えていない大学生の頃はボーッと見ていましたが、今は父の心もちがよく分かります。
↑ミシンの中には加工精度の高い部品が入っています(大学生の私は何をつくっているのかピンときませんでしたが)
その後、私は住宅業界に長く身を置いてきました。現在では多くの社長の「参謀」として事業発展のお手伝いをしています。住宅業界においても「衰退産業」と言われて久しく、「成長産業」に憧れる社長も多くいらっしゃいます。
しかし「成長産業」の中には業界ごと姿を消したような分野もある中で、住宅産業はそうはなっていません。「外資参入」や「海外移転」もそれほど聞きません。おそらくはこれからも産業そのものが無くなることはないでしょう。人口が減少すれば規模は小さくはなりますが、需要は無くなりません。むしろ需要の「質」は高まる面もあるでしょう。他業界の例を見ても明らかです。
「成長産業」に憧れている場合ではありません。高まる「需要の質」への備えを止めてはいけないのです。なぜなら、それは新たな選択の基準となり、小さな会社に有利な面が増えてくるからです。
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