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遠近歪曲(遠近トラップ)を利用する―人は遠くのものほど良く見える―

SPECIAL

地方メディアの高度有効活用コンサルタント

株式会社メディアコネクション

代表取締役 

広告分野における地方メディアの高度有効活用を専門とするコンサルタント。東京在住中のマーケティングビジネス経営の経験と地方企業への経営革新支援ノウハウの融合させた、独自の「儲かるための広告戦略」を開発。自らも成功実践事例として、地方メディアを舞台に展開。

「遠近歪曲」という言葉があります。

遠近歪曲: 「遠いものほど良く見え、近いものほど粗が目立つ」という人々の認識のバイアスを意味する言葉。

この言葉が当てはまる現象かどうかわかりませんが、ちょっとした風邪とかひいたとしても、わざわざ隣り町の医者まで行く人がいます。同じ町内に内科があったとしても、あえてお隣りの町まで行くのです。逆に隣りの町からこちらのお医者さんにかかる人もいます。なぜこのような現象が起こるのでしょうか。

それは一つには、同じ町内のお医者さんであれば、その人の人となりまで詳しく知っているから、ということがあるからではないかと考えられます。「(あのお医者さんは)お酒が好きらしいよ。」とか「奥さんと仲が悪いらしいよ。」とか「お金儲けに目がないらしいよ。」とか、医療とは直接関係のないその人のエピソードで、バイアスがかかってしまうのです。これがちょっと離れた距離であれば、そのような細かい情報は遮断されていますので、ただ医療の部分だけを受け入れるのです。

田舎では結構この現象を目にしました。初めは、何故だろう?と不思議だったのですが、他者に対して、どちらかといえばネガティブな評価を下しがちな、濃い地域内マインドというものをあとから理解して「ああ、なるほど。」と思ったことを覚えています。

 

まあこれなどは他愛もない話ですが、実際の「遠近歪曲」には、もっと重要な意味合いが含まれているようです。この点について、一橋ビジネススクールの楠木建教授と社史研究家の杉浦泰氏は、日経ビジネスの連載「逆・タイムマシン経営論」において次のように述べておられます。

― 空間軸と時間軸のいずれでも遠近歪曲トラップは起こります。地理的に遠い海外の事象ほど良く見え、我々の身近にある日本の事象ほど欠点が目に付く、というのが空間軸上での遠近歪曲です。これに対して、同時代で今起きている事象ほど悪く見え、歴史的な過去の事象、もしくはまだ実現していない未来ほど良く見える、これが空間軸上で発生する遠近歪曲トラップです。―

我が町と隣り町との現象であれば大した問題でもありませんが、これが国際的な課題となると、無視してもいられません。特に日本の場合、距離が関係する空間軸上での遠近歪曲が問題となりそうです。

 

その点について、日本経済をテーマに、次のように述べられています。

―「日本の経営者は内向きで大胆な変革ができない」「日本企業の経営スタイルは硬直的で時代遅れ」といったミクロレベルでの批判から、「少子高齢化の閉塞感の中で日本には展望がない」というマクロな言説、はたまた「このままでは日本は崩壊する」という憂国的な全否定まで、「日本(人、企業、社会、政府)はダメ」という主張が毎日のようにメディアから発信されています。―

なるほど、メディアに目を向ければ、確かにこういった姿勢は昔から変わらないところです。結構長く言われてきていますので、このような言説がそのまま当たっているとしたら、日本という国はとっくに崩壊していたことになります。しかし、当たり前の話ですが、そうなってはいません。

 

それでは他の国はどうなのでしょうか。

― こうした主張は常に相対的な比較論に基づいています。つまり、「米国(とか中国とか北欧)では……」で始まり、「ところが、日本では……」と問題や欠点を指摘し、「だから日本はダメなんだ」という議論の構造です。

 当然のことながら、日本には問題が山積しています。ビジネスや経営の分野でも、先進国や新興国に比べて「遅れている」「劣っている」ところが多々あります。ただし、です。比較対象の米国や中国はどうでしょうか。問題がないかと言うと、もちろんそんなことはありません。―

考えてみれば、日本人というのはことのほか上記の「比較論」が好きだったのかも知れません。目指すべき目標があって、それに比べるとまだまだこちらは劣っている、どうにかしなければ・・・といった論理です。或る意味それが、日本の経済発展の原動力だったとも言えます。

ただ、この「比較論」の立ち位置が、常に「日本はダメ」の側だったとすれば、それは公平さを欠いていたといわざるを得ません。上記の議論は主に経済面を指していると思われますが、いつまでもこの論理だけで議論を進めるのはおかしな話です。ともあれ、戦後の自虐史観に始まって、日本人は常にこのようなネガティブなポジションで物事を見てきたことになります。

 

「日本ダメ論」をベースに置くのはいうまでもなく日本の側です。それでは外国は日本をどう見ているのでしょうか。

それは次のような議論になります。

― 空間的に近い日本の企業や経営の粗が目立ち、遠くにある米国や中国の企業となると、良いことばかりが目立ち、悪いことは目に入らない。裏返せば、これだけ問題が山積している日本の経済や社会や企業にしても、遠く米国の人々には、いまだに「日本のものづくりの品質はすごい」「テクノロジーと伝統の融合」「いざというときは円が強い」「人々は穏やかで治安が素晴らしい」「清潔で秩序だった社会」と見えているわけです。遠近歪曲トラップは日本に限らず、古今東西、普遍的に見られる人々の思考の癖です。―

なるほど「遠近歪曲トラップ」というのは面白いですね。置かれているポジションや事実は変わらないのに、見る角度によって、その評価は随分違ったものになるのです。このトラップの罠にいかにハマらないよう、客観的に自らを見ることができるのかはとても重要なことのように思えます。

 

こういった国際的な「遠近歪曲トラップ」について、かつてあった「ジャパンアズナンバーワン」ブームの頃を取り上げて、この筆者は、以下のように結論づけています。

―1970年代から1980年代前半にかけてのJapan as No.1という議論(中略)

「Japan as No.1」という同時代の空気があった欧米では「日本はすごい」「日本企業は脅威だ」「日本的経営には独自の強みがある」と、日本の競争力についての(今振り返れば)過大な評価がありました。

 ところが、一方の日本ではどうだったでしょうか。「日本的経営は通用しない」「外資企業は脅威だ」という、今と大同小異の議論をしていたのです。欧米にとっては、遠くにある日本が良く見え、日本では身近にある日本の企業や経営の問題点がクローズアップされていました。ようするに、日本と海外の両方で遠近歪曲トラップが作動していたわけです。―

こうやって振り返ってみると面白いですね。どっちにしても「遠近歪曲トラップ」が働くと、本当の姿が見えなくなります。

ただこうやって、世界規模の「遠近歪曲トラップ」について解説されると、日本だけが常に自分の側をネガティブな目で見ていたことがわかります。傲慢になる必要はありませんが、謙虚さもほどほどにしないと、不必要に自分を卑下することになります。

しかし、日本のマスメディアは一貫してこのネガティブな姿勢を貫いており、ときには政治的に自らを陥れるような行為を働くことさえあるくらいです。誉めそやす必要はありませんが、せめて自国に対して、もう少しポジティブな見方ということはできないものでしょうか。

 

さて、このコラムの冒頭で「隣り町のお医者さん」理論を展開しました。これも小さな意味での「遠近歪曲バイアス」がかかっているのではないか、というお話でした。この卑近な事例においても、上記の「逆・タイムマシン経営論」における国際的な事例においても、「遠近歪曲バイアス」或いは「遠近歪曲トラップ」といった言い方をするように、この現象は誤解或いは錯誤によるものということでした。つまり、どちらかといえば、ネガティブな意味で使われていることになります。

 

さて、ということであったとしても、私は逆に、この「遠近歪曲バイアス」をプラスに利用してはどうかと思っています。人は、我が国にしても我が町にしても、あまりに身近にあると、ありがたみを感じないというのが「遠近歪曲バイアス」によっておこる現象でした。だとすれば、ちょっと不便なくらいの適度な距離がちょうどいいのかも知れません。そういう意味では、私が常々申し上げてきた「情報発信(アウトプット)」によって、ちょっとしたポジティブな印象を与え続けることは可能です。

「情報発信(アウトプット)」においては、何もわざわざこちらのネガティブな情報を与える必要はありません。淡々と、こちらの専門性や何かしらプラスの情報だけを発信し続ければいいのです。そうすれば、いい意味での「遠近歪曲トラップ」を仕掛けることができるのではないでしょうか。

いずれにしても「遠近歪曲トラップ」或いは「遠近歪曲バイアス」というものは存在するのですから、これを上手に利用するということを考えてもいいのかも知れません。

 

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