江戸幕府はなぜ260年も続いた?家康の長期戦略を経営に生かすには
「うちの会社なんて、とても100年も続きませんよ」
こう笑う経営者はとても多いものです。自信のなさから謙虚な言動をされるのかも知れません。ですが、人生100年といわれる時代です。会社経営も100年を見越して行いたいもの。
ここで参考にしたいのが徳川家康です。家康といえば皆さんご存じ、江戸幕府を開いた武将です。江戸幕府以前にも室町幕府と鎌倉幕府と、武家政権がありましたが200年以上は続いていません。政権の体をなしていたのは前半の約100年ほどです。後半は混乱につぐ混乱で、日本中が大揺れしていました。
しかし、江戸幕府は違います。慶長3年(1867)11月に大政奉還が行われるまで、比較的安定した政治が行えていました。この理由は何でしょうか。今回は江戸幕府を開いた徳川家康の視点を経営に生かすヒントにしていきましょう。
■家康は不遇の時代によく学んだ
家康は三河国(愛知県東部)の土豪の長男として生まれました。幼少期から織田家、今川家へ人質にやられています。ただ、人質といっても幽閉されていたわけではなく、織田家では若き日の信長と親交を深めていますし、今川家では当主の義元から名前の一文字をもらうほど可愛がってもらっています。
子供だったということもあるでしょう。それを差し引いても、人質であるはずの家康は大切にされています。それもそのはず。家康は三河国の当主の息子として今川家に人質にされていますから、下手を打つと今川家は三河国を手に入れることができません。ですから、父母と別れた幼き日の家康は今川家の人たちに大切に育ててもらいました。
武芸・学問を身に付けさせてもらい、当主の今川義元との接見も可能。至れり尽くせりの人質生活ですが、やはり人質。自分の言動一つで三河国の運命が変わってきますから、行動を慎みます。ただひたすら、武芸と学問に打ち込みました。今川家は公家との交流も盛んでしたから、芸術にも触れる機会も多かったはずです。
この時の経験が、徳川家と豊臣家の大きな違いといっても過言ではありません。武芸や学問を含め多くの情報を仕入れていれば、この情報を素に「いつ行動をすれば良いか」が分かるのです。目の前にあるものだけで判断をせず、先人の知恵からも行動が取れる。それだけ選択肢が増えるのです。
最善の選択肢を選べるからこそ、家康は忍耐強く時期を待てたといえます。
■家康は治水をメインにインフラ整備に力を注いだ
家康が武蔵国(東京都)を秀吉から譲られた際、最初に行ったのが治水工事です。農業をするのにも生活をするのにも水は重要。この生きる為の設備、インフラ整備に心血を注ぎました。特筆すべきは下水です。この時代、世界中どこを見ても下水を備えた都市はありません。
下水は生活が楽になるというだけでなく、災害後の疫病予防にも効果を発揮します。医療が発展していない時代だからこそ、疫病を起こさせない予防を大切にしたのです。これがあったからこそ、江戸の街で大きな疫病は260年の間に起きていません。
大規模なインフラ工事には、もう一つ目的があります。それは人集めです。周辺国だけでなく日本各地から労働者を集めました。そう、他国の兵力になりうる人材も江戸に来させたのです。これにより戦わずしてライバルの戦力を落とすことが実現しました。
人を集めるだけ集めたところで天下を手中に入れ、関所を設けます。この関所があるため、今度は人の行き来が自由にできなくなりました。こうやって江戸には多くの人材が留まるようになったのです。
良いばかりのように思えますが、弊害もあります。それは生涯未婚率がとても高かったことです。肉体労働ができる男性ばかり江戸の街に集まっていましたので、どうしても男女比率が偏ってしまいます。結果、独身男性ばかりに。このため吉原など花街が発展したのです。
■家康は朝廷とのパイプになった人材を高家旗本にした
幕府は征夷大将軍にならなくては開くことができません。これは朝廷から任命される役職です。よって、自称することはできないものです。必ず朝廷、つまり天皇から任命を受けなくてはならないのです。
このためには朝廷とのパイプ役が必要不可欠です。その役割を担ったのが、元名門武将の子孫や元公家です。家康は江戸幕府を開いてから、彼らを高家旗本に任命しました。ただし、武功は上げていないため、たくさんの禄(給料)を与えることは他の武将の手前できません。ですから、身分を与えたのです。
高家旗本は老中の直属の部下ですから、かなり大きな権限を持っています。将軍の代参をしたり朝廷の接待をしたり、格式が必要な場面で大活躍をしていました。有名な高家旗本に、『忠臣蔵』の敵役である吉良上野介がいます。新しい一万円札の顔になる渋沢栄一も高家旗本の子孫です。
これは戦国時代ではありえない待遇なのです。どうしても武功を上げることが出世の近道になっていましたので、ネゴシエーション等で頭角を現した人物は軽んじられていました。ですから、こうやって高家旗本として取り立てるということは異例だったのです。
ただし、家康は他家のネゴシエーターや頭脳派は潰しています。関ヶ原の合戦はその良い例です。西軍の大将の石田三成は文治派の武将で、政治力をもって出世をした人物ですから。ネゴシエーションを重んじていた家康にとっては、目の上のたん瘤だったでしょう。
■経営に迷ったら家康の生涯に答えを探す
家康は江戸幕府260年の礎を77年の生涯をかけて築きました。規模は違いますが、会社経営も同じです。生涯をかけておられる経営者がほとんどです。経営に迷った時は偉人の生涯に答えを求めるのもありでしょう。
ただ、家康の戦略を現代で行うと敵を作ることになります。そのままを実行するのではなく、何を目的に行動したのかを見ていきたいですね。この「行動の目的」が分かれば、現代でも十分応用可能な戦略は多いですよ。
家康の生涯からも答えが見つからない時は、私に声をかけてやってください。一緒に100年続く会社について考えていきましょう。していけないことは、自分だけの経験で答えを出そうとすることです。答えは内側にあるとは限りませんよ。
最後まで読んでくださり有難うございました。
あなたの一日が素晴らしいものでありますように。
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