地域再生に必要なものを伊達政宗から学ぶ!地方が飛躍する為の知恵
「うちの会社は地方にあるからダメなんだ……」
こうお嘆きの経営者はとても多くいらっしゃいます。この状態を覆そうと、近年は企業だけでなく行政にも地域再生のため経営コンサルタントを入れている地域もあります。大きな成果を出している地域もありますが、それ以上に斜陽地方が多く地域再生は日本全体の火急の命題となっています。
しかし、よく考えてください。本当に地方だからダメなのでしょうか。例えば、戦国武将の伊達政宗をみてみましょう。彼は仙台藩の藩祖です。首都である京からも幕府のある江戸からも遠い地域が彼の領地でした。それでも仙台藩は栄え、一時期は江戸の3分の1の米は仙台藩のものだといわれていました。
なぜ、このようなことができたのでしょうか。今回は伊達政宗を通し、地域再生について考えていきましょう。
■政宗は中央進出するのではなくパイプを作った
伊達政宗は戦国時代真っ只中の永禄10年(1567年)出羽国(現・山形県)で誕生しました。武将は一様に京都を目指し、日本の覇者になろうと躍起になっている時代です。もし、政宗も出羽国ではなく織田信長や豊臣秀吉のように尾張国に生まれていたら、このレースに参加していたでしょう。
しかし、出羽国から京都はとてつもなく離れています。しかも政宗が家督を継いだ時点で、秀吉が天下統一を果たす寸前です。この状態で政宗が日本の覇者になるのは不可能です。兵を集めるのにも、当時の出羽国の人口は太平洋側の地域に比べ少ないものでした。
このような状況ですから、政宗ができることは限られています。まず奥羽国の平定を行い、存在感を中央にアピール。その上で時の権力者に気に入られるよう振る舞う。この行動を人によっては「ごますり」や「お調子者」と受け取る人もいるでしょう。ですが、結果的に現在までも伊達家は存続しています。
昔は現代に比べ、権力者の力が大きい時代でした。権力者の一存で大きく国が変化していましたから、機嫌を損ねないようにするのも命を賭けています。民が露頭に迷うよりも、自分が頭を下げてどうにかなるならいくらでも下げたのです。
この繰り返しで、秀吉・家康・秀忠・家光に気に入られ、家と領地を発展させました。
■政宗は文化を大切にした
一昔前までセンスの良い男性を「伊達男」と呼んでいましたよね。これは伊達政宗のセンスが良いことから生まれた言葉です。朝鮮出兵(文禄の役)の際、絢爛豪華ないでたちで入洛したことから、都人が使い始めたそうです。
センスというものは一朝一夕で身につくものではありません。政宗は幼少時から武芸だけでなく、書や香、絵画等に親しんでいたとのこと。中でも料理の腕はピカイチだったそうです。この教養の積み重ねがセンスを磨き、現代でも使用される言葉にもなるほどの粋人にしたのです。
この教養の深さはセンスを磨くだけのものではありません。現代でも好評販売中の色鮮やかなずんだや、持ち運びに便利で保存性もある凍り豆腐など名産品の開発にも生かされました。
地域の特色を生かし、人々が興味を持つであろう商品の開発はとても難しいものです。特に「興味を持ってもらう」というのが最も困難なものです。それでも政宗は自身に蓄えた教養、つまり文化を駆使し名産品を生み出しました。
文化とは人々が楽しんだものの歴史の集結です。それを政宗は分かっていたのです。「楽しい」を商品開発につなげました。緑色の美しいずんだは、味も良く見ても楽しい食品ですよね。
■政宗は早い時点で海外に目を向けた
政宗の教養は押し付けられて高めたものではありません。生来、様々なものに興味を持つ性格だったとのこと。そんな好奇心の塊のような政宗は、早い時点で海外にも目を向けていました。多くの武将が出征を嫌がった朝鮮出兵も、異文化に触れられる絶好の機会と政宗は喜び勇んで参戦したようです。
江戸幕府が開かれてからは、政宗は家康の許可を得て、幕府からではなく仙台藩から慶長遣欧使節団を結成し海外に送り出しました。正使(主任)にフランシスコ会宣教師のルイス・ソテロ、副使に家臣の支倉常長を置き、エスパーニャ(現・スペイン)やローマ、ヌエバエスパーニャ(現・メキシコ)に約180人を派遣しています。
政宗の狙いは、石巻港をスペインからの玄関口にしようというもの。石巻近辺は海流がスペインとの行き来に適しており、家康もこれを歓迎しています。政宗は狭い日本国内だけでなく、海外に目を向けることにより地域を活性化しようとしたのです。国内の流通だけでは限界がありますが、海外なら販路の拡大の余地がありますから。
残念ながら家康没後、三代将軍家光によりバテレン追放令が発布され、政宗の予定は白紙になってしまいます。欧州による植民地支配が盛んな時代だった為、やむを得ない対処だったでしょう。
それにしても、政宗の先見の明には感服するばかりです。
■政宗は側近の片倉景綱の意見に耳を傾けた
政宗は幼少時よりずっと側にいてくれる家臣がいました。10歳年上の片倉景綱です。彼の姉の喜多が政宗の乳母だったことから兄弟のように育ち、政宗に武術や様々な教養を教えたといわれています。軍師的な役割を担っていました。
景綱は神職の息子で、元々頭の良い人だったようです。年の離れた姉の喜多から勉学や武芸を習い、米沢城下で起きた大火事の対処が鮮やかだったことから正式に伊達家に召し抱えられました。情報収集を得意とし、分析をした上で政宗に進言していますから、政宗も納得せざるを得ません。
武の政宗・智の景綱といわれ、この両輪があったからこそ、現代まで伊達家が存続しているといっても過言ではありません。時に勢いで物事を進めようとする政宗をいさめ、時に迷う政宗の背中を押した人物です。我の強い政宗も景綱の意見は素直に受け入れていたようです。
景綱もまた教養深い人物で、笛の名手だったそうです。政宗が風流であったのは、彼の影響が大きかったのです。この景綱は仙台藩の繁栄を陰ひなたで支え、子供たちにも伊達家を支えるよう言い残しています。片倉家もまた現代まで続く名家として残っています。
■教養深い軍師の存在が地域再生の鍵
実は政宗だけでなく、優れた戦国武将には優れた軍師がついていました。武将は軍師なくして戦はできず、軍師は武将なくして戦ができなかったのです。どの軍師も知識だけでなく、分析力もあり教養も深い人物です。
あなたには軍師がついているでしょうか。誰かの意見を受け入れ、行動を起こす。これがないと、発展はありません。会社経営だけでなく地域再生も同じです。
もし、不安になった時は私にお声をかけてやってください。一人で突っ走るのではなく、客観的な意見を受け入れてからの行動は、今まで以上のパフォーマンスになりますよ。
最後まで読んでくださり有難うございました。
あなたの一日が素晴らしいものでありますように。
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