専門コラム「指揮官の決断」 No.057 頭より先に船を進めるな
私は学校を出て船に乗る仕事に就きました。学生時代はヨットで外洋レースに熱中していました。ヨットには小さい頃から乗せてもらっていたので、海や船との付き合いは半世紀になります。
船乗りがその教育を受ける時に、必ず教えられる古くからの教訓があります。
それは「頭より船を先に進めてはならない。」ということです。
分かったような分からないような訓えなので説明をさせて頂きます。
船乗りが航海計画を立てているところをご覧になった方はおそらく極めて少数かと拝察いたしますが、恐ろしく面倒なことをしています。
まず行き先を考えて航路を決めます。これは自動車のドライブも同じです。
早く着きたいか、有料道路を避けたいか、渋滞をどうするか、景色を楽しむかなどドライブでもコースを決めるために考える要素はいくつもあります。
船の場合は、距離が短ければいいというものでもなく、途中での補給などを考える必要もありますし、海峡を通らなければならない場合にはその海峡を通る際の様々な問題点を考えます。気象条件によっては通れない場合もあり、時間帯によっては潮流が逆になって通るのが困難な場合もあります。
国際的な海峡では海賊を心配しなければならないこともあります。
コースが決まったところで、航程表が作られます。
これは出発港から到着港までの航程を表にしたもので、どの目標を何度、何マイルになった時に針路を何度に変針するのか、その変針点を通過する時間は何時何分かが計算されます。各航程が短い場合は直線コースであまり問題はありませんが、太平洋を渡る時などは、地球が丸いので大圏航法という航法を用いるため、小刻みに変針していく必要があります。単に真っ直ぐ走っているわけではないのです。
ここまでは自動車のドライブプランを作るのと大体同じなのでよくご理解頂けるかと思いますが、これからが船独特の世界になります。
計画を立てる際、各航程における潮流を計算するのです。潮汐表を見たり、その年の黒潮の情報を検討したりするのです。特に狭い海峡を通る時は、この潮流をしっかりと把握しておかなければ航路の中で自分の進むべき針路を維持できなくなることもありますので、真剣に検討します。当然のことながら予定より早く着いたり遅くなったりした場合の潮も調べておきます。
さらに、交通量の多い狭い海峡などでは、通る際に特定の旗を掲げなければならなかったり、管制センターに無線で届け出たりする必要もあり、それも確認します。
これらもちょっと考えれば想像できる作業かも知れません。しかし、その後に船乗りが行う作業はちょっと変わっています。
船乗りは、初めて通る航路については、その最初から最後までのあらゆる情報を調べるのです。
航路沿いにある灯台が夜間、どのように光るのか、その間隔、色、光り方をすべて海図であらかじめ確認します。
私が初任幹部で船に乗った時は、それを全部手帳に書き込んで、できれば覚えるようにしていました。艦橋で当直に立っている時に、いきなり艦長が現れ、「あの灯台はどこの灯台だ。」などと聞いてくることがあり、その度に海図を覗き込んでいるようでは失格だからです
さらに海峡を通る場合や瀬戸内海のような海域を航行する時には「対景図」というものを作ります。
これは船を予定通りに走らせた場合、目の前に広がるであろう景色をあらかじめ図にしておく作業です。つまり、航路上のある一点で、自分の針路上に見えるはずの景色を、海図から読み取る情報をもとに絵にしていきます。右斜め前にどのような形の島があり、左前には別の島がどのように見えるはずだという絵を何枚も描くのです。
要するに自分が予定している航路を航行した場合に目の前に広がる形式をあらかじめシミュレーションするということです。
したがって、船乗りは海図を見ると、どの島はどちらから見るとどのような形をしているのか瞬時に頭の中で絵にすることが出来ます。
もし、そのシミュレーションのとおりの景色が広がってこない場合には、予定した航路を外れていることになりますので、直ちに対応しなければなりません。潮流に流されたり、風に押されて風下に流されているかもしれないからです。
船や飛行機は必ずしも船首や機首が向いている方向に進んでいるとは限らないのです。
この時に活かさなければならないのが冒頭に掲げた訓えである「頭よりも先に船を進めるな。」ということです。
「アレッ?」と思っているのに「まあいいか」と船を進めてはならないということです。進んでいく先の状況が分からない限り、船をそこに進めてはならないのです。
しかし、船は簡単には止めることができません。自動車にも制動距離というものがありますが、船の場合はそれが極端に長く、また、その間に潮流や風の影響を受けて流されてしまい、その場に留まることは困難です。
いよいよの場合は錨を入れて停船させるしかありません。しかも、錨は水深が深いと効くのに時間がかかります。
船には錨を入れるという手段がありますが、飛行機の場合はそれもできません。
飛行機の場合は、途中で何かトラブルが起きた場合に備えて、航路上の利用できる飛行場についてすべて調べてから離陸するのが常です。
このような周到さが船乗りや飛行機乗りには求められています。これが道路を走る自動車との決定的な違いです。
海軍や空軍の船乗りや飛行機乗りは、自然環境だけではなく、戦う相手についても同様の検討して計画を立てます。それが作戦計画です。
事前に戦いをどのように進めるのかを綿密に計画し、実際の戦いが計画通りでない場合には直ちに検討を行い、既存の計画のままでいいのか、修正しなければならないのかを判断しなければなりません。
戦場ではそれを瞬時に行うことが必要になります。
私が危機管理に重要だとしている3本の柱がありますが、その中の一つが「意思決定」です。
危機管理上の事態においては、じっくりと時間をかけて意思決定をすることができません。瞬時に判断しなければならないのが普通です。
しかしその判断は、あたかも事前に立てられた計画のようにあらゆる要素を検討したものでなければなりません。それが危機管理の難しいところです。
私はコンサルティングで、そのような場合の意思決定手法についてお伝えしています。それは自分の使命を分析するところ始まる一連の手続きを踏むものです。
最初は面倒なのですが、慣れてしまうとごく自然にできるようになります。
実はこの意思決定の一連の手続きは、天才はそれを必要とせず(天の啓示があるからです。)秀才は瞬時に駆け抜ける手続きであり、我々凡人は慣れると瞬時にできるようになりますが、最初は誰かに正しい手法を教えてもらわなければなりません。
頭より先に事態を進めないということは、単に立ち止まればいいということではなく、簡単な話ではありません。船はエンジンを止めると潮に流され、風によって風下に落されてしまいます。その場に留まることすらできないのです。
自分だけが立ち止まっても環境はどんどん変わっていきますので、相対的に自分も動いていることになってしまうのです。
それは宇宙から見れば逆戻りしているように見えるでしょう。頭より先に進めないという判断は、実は後ろ向きに動くという判断と本質は変わらないのです。
1990年代、インターネットを使っていたのは極めて少数の人たちでした。
2010年代、時代はインターネットを使うことを前提とした時代となりました。この時代に、インターネットを一切使わないで仕事をしていくためには、かなりの工夫や手間が必要かもしれません。使うと便利だからではありません。
後ろ向きに動くという判断をするのであれば、後ろの景色もはっきりと見えていなければなりません。後ろの景色もどんどんと変わっていくからです。時の流れに関しては、元に戻るということはできません。
将来のしっかりとした景色を見ないままに動くのは「投機」であり、私たちがしなければならないのは「投資」です。
しっかりとした全体像と将来像を見据えて行うのが「投資」であり、そうでなければ「投機=ギャンブル」に過ぎません。
船乗りの「頭より前に船を進めるな。」という訓えは、単に常に前方の状況が分かっていなければそれ以上進むなと言っているのではありません。常に自分の進むべき道についてしっかりとした情報を探し求め、連続的な判断をしていかなければならないという訓えでもあります。さらに、あらゆる事態に対しての「腹案」を持っていなければならないという訓えでもあります。
判断を誤らない意思決定とはどうあるべきなのか、普段から意識しておく必要があるのです。
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