専門コラム「指揮官の決断」 No.028 『失敗の本質』の失敗の本質
先に、私たちは成功例から学ぶことはほとんどなく、失敗例からこそ学ぶべきであると述べました。そして、過去の事例に学ぶとき、注意すべきことは学ぶ態度であり、極めて謙虚な態度が必要だとも述べました。そのうえで、わずかな例から原則を打ち立てたような気になっていると、大怪我をする原因となり、よほど注意しないと本質を見失うことになりかねないとして、その例に『失敗の本質』というビジネスマンの必読書と称される本を取り上げました。
このコラムを読んだ組織論研究者の方々や同書をバイブルのように読んでいる方々から、聞き捨てならぬ、ちゃんと説明せよ、とご意見を頂きました。
そこで、今回はそのお話です。
同書は出版当時の組織論や戦史研究の第一人者の共著で、ロングセラーを続けるだけあって、読みごたえがある本ではあります。
私は大学院の専攻が組織論であったので、この本が出版されたときに当然に買い求め、むさぼるように読んだことを覚えています。
すでに海上自衛隊に入隊していましたが、組織論研究者の端くれとして、極めて興味深く、一読してさすがと唸ったものでした。
この本は戦史を組織論の視点で分析した初めての研究書であり、なるほど組織論の専門家が戦史を分析するとこうなるのかと感心しながら読み返していました。
しかし、何度も読み返すうち、組織論研究者の視点ではなく、海上自衛官として実務家の視点から何度も読むようになると、かなりの違和感を感ずるようになってきました。
その違和感の源が何なのかが整理できるようになったのは、少し実務経験を積んでからでした。そして、実務家としての違和感の源が何なのか理解しかけたころ、今度は組織論研究者端くれとしての眼にも違和感が映るようになってきたのです。
この書物は、第2次大戦を戦った日本軍と米軍を比較し、日本軍の致命的欠陥が何であったのか、それに対して米軍は何が優れていたのかを見事に対比してみせ、その鮮やかさが大きな反響を呼び、賞賛を浴び、ビジネスマン必携の書とまで言われるようになりました。
確かにボリュームはありますが、それほど難解な本ではないのに、なぜか解説書まで出ており、かつ、その影響を受けた書物や雑誌記事が数多く出されています。
私は組織論の研究者の端くれとしての眼と、海上自衛官という軍事に関する実務家の両方の眼でこの本を読み続けてきた結果、どちらの眼で読んでも首をかしげざるを得ない記述が多く、世のビジネスマン諸氏は、この本から何を学んでいるのだろうと思うようになってきたのです。
例えば、本書は日本軍の年功序列の硬直した人事制度が適材適所を妨げ、不適当な指揮官が補職されたのに対して、米軍は実力によって抜擢を行い、適材を適所に配置することができたと随所で論じています。そして、これが数々の日本軍の犯した失敗の一つであることが指摘されています。
この分析一つとっても、私には納得がいかないのです。
たまたま事例に挙げられた作戦において米軍の指揮官が極めて優れていたことは間違いありません。また、そのような指揮官がそこにいたのは、米軍の適材適所を可能とした人事制度の柔軟性のなせる業に違いありません。
しかし、その大抜擢を可能とする米軍の人事システムが、米海軍をテーマにした多くの小説などで揶揄されるような欠陥を持っていることには触れられていません。というよりは、この本の著者の学者たちが米軍の内情をよく知らないのかもしれませんが、米軍では、将校クラブなどでの社交生活で妻が上官の夫人に嫌われると本人の人事評価がとんでもないことになるので、奥様方は夫の上官夫人に相当の気を使っています。将校夫人クラブには将校クラブの序列がそのまま反映されているのです。
また、上院議員に知り合いがいるということは非常に大切なこととされています。人事の抜擢制度の陰には、このような力関係も大きく働くことがあります。
この結果、誰が見ても不適切な人事が行われて、とんでもないヘマな戦いを行った結果更迭された指揮官も数多いのですが、この本の著者たちはその例を知らないのか、一切触れていません。
英語にはbrown nose という表現があります。当コラムの品位を保つために日本語訳は記載しませんが、Googleで検索するとすぐ意味がわかりますので是非調べてみてください。
私がこの単語を知ったのは、米海軍の軍人たちと飲んでいる時であったことでもわかりますが、この抜擢制度は大きな問題もはらむ諸刃の剣なのです。
また、儒教的倫理観が根底にある日本で、士官学校の卒業年次を無視した米軍のような抜擢制度がうまく機能するのかどうかも全く議論していません。いくら米国にとって優れた制度であっても、日本の風土に馴染まないものであれば取り入れてもうまくいかないのです。
「目標による管理」が日本の企業でうまく定着していない事実を見れば一目瞭然ですが、米国で機能した人事制度が日本でも機能するのかどうかという社会学的な考察をすべきなのです。
さらには、明らかに運が左右している事例についても、あたかも両軍の体質的な長所、短所から導き出された論理必然的な結果であるがごとき記述がなされているところが多いのも気になります。
戦場においては理屈では説明できない運命のようなものの存在を無視できません。理論的に100発1中と証明されている大砲の弾が何発目に命中するのかは運でしかなく、それが戦況を支配した場合、これを論理必然的結果として説明することはできないはずです。しかし、本書ではそのような説明が随所でなされています。
そのように戦場を支配した運としかいいようのない結果を学者の後知恵で解釈するので、実務家が読むと釈然としないのです。私たち防衛の最前線にいた者が同じ後知恵で考えても、「ここなら俺でもこう判断したよな。」と思うような場面が多く、どうも実務家の立場から読むと納得できない議論が展開されています。いろいろな事例を自分の仮説で説明したいのでしょうが、こじつけとしか思えない部分が多いのです。
一方の研究者の眼で読んでも気になる記述が目につきます。
この本の著者たちは学者であり、実務家ではありません。しかし、学者なら学者で論理の一貫性や事実による検証をもっと重視すべきなのですが、それも怪しいのです。
例えば、ミッドウェー作戦において、「米空母の存在を確認したら、護衛戦闘機なしでもすぐに攻撃隊を発進させるべきであった。航空決戦では先制奇襲が大原則なのである。」という記述がありますが、これは実際に部下を送り出す指揮官として、護衛なしで出撃させるという判断をできるかどうかという実務家として感ずる疑問以前に、研究者としての基本姿勢を問われる記述でもあります。
なぜなら、この有名なミッドウェー海戦以前に航空決戦は歴史上一度しかないのです。
約1か月前に戦われた珊瑚海海戦がそれです。
ハワイ奇襲やマレー沖海戦においても航空機が水上艦艇を攻撃した例はありますが、海上航空戦力同士が戦ったことは珊瑚海海戦以前にはありませんでした。
つまり、航空決戦にはまだ原則など存在していないのです。1回の前例で原則を打ち立てる態度はまともな研究者のそれではありません。
実は、先制奇襲は航空決戦の原則ではなく、戦いの原則です。しかし、原則は原則であり、常にその原則どおりに戦えば勝てるというものではありません。そこに指揮官の判断が必要になる理由があります。原則どおりに戦えば勝てるのであれば、幕僚学校で一生懸命勉強して過去の例をたくさん知っている優秀な幕僚がいればそれで済んでしまい、指揮官は不要です。
現に、ミッドウェー作戦の1年8か月後、昭和19年2月、海軍航空戦力再建の中核として期待されていた第一航空艦隊司令長官の角田中将は、テニアン島へ進出した翌日に米機動部隊発見の報を得て、「見敵必戦」を掲げ、出撃命令を出しました。
参謀は進出直後で態勢が整っていないことを理由に航空機の消耗を避けるために避退することを進言したのですが、角田中将それを退けて出撃させ、攻撃隊は全く戦果をあげることができませんでした。貴重な航空機と搭乗員を失ったばかりか、攻撃を終えて帰投する日本軍機の後をつけた米軍機により基地の存在を知られ、翌日空襲を受けて93機のうち90機を失って全滅してしまいました。この結果、計画されていた「あ号作戦」で期待された戦力を壊滅させてしまうという結果を招いています。
「先制奇襲が原則」とするこの書物は、この失態に全く触れていませんが、もし触れたとすればどのように解説するのでしょうか。
要するに、この書物の著者たちによる分析は、同じことをしても、勝った方には「作戦に柔軟性があった」、負けた方には「場当たり的で一貫性がない作戦であった。」、という評価をし、逆の場合には、勝った方に「作戦が終始一貫した戦略に基づいて遂行された。」、そして負けた方には「硬直した作戦を頑固に戦ったために負けた。」という評価を与えているようなものです。
ミッドウェーでは正攻法を取ったために発艦前に米軍機に襲われてしまいました。
だから護衛の戦闘機なしでも出撃させるべきであったと評しているのですが、これは全くの後知恵です。
護衛なしで出撃させて、敵艦隊上空で迎撃機によって大打撃を受けていたら、護衛をつけずに出撃させるなど航空戦の原則に反すると主張したのではないでしょうか。
現に、第2次攻撃隊の発艦準備でバタバタする前に攻撃に来た米軍機はほとんど上空を警戒していた日本の戦闘機により撃墜されているのです。
自分たちの仮説で説明するのに都合のいい事例だけを持ち出して全体を説明するのは「合成の誤謬」と呼ばれる論理的な誤りです。
目の見えない人たち何人かに象を触らせると、足を触った人と耳を触った人、尻尾を触った人でそれぞれの象についての認識が違ってしまいます。その自分が触った一部分の印象で、「象はこういう動物だ」と主張しているのと同じなのです。研究者にとっては絶対にやってはならない誤りです。
さらにこの本の著者たちの侵してはならない致命的なミスは、真珠湾攻撃を成功事例としていることです。
戦史ファンならともかく、まともな組織論の研究者が真珠湾攻撃を成功事例と考えているというのが驚くべきことです。
作戦は目的を達成して成功であり、目的と反対の結果を生じた場合には失敗と言わなければなりません。
真珠湾攻撃の目的は、開戦劈頭に米太平洋艦隊に大打撃を与えてその士気を奪い、米国に日本と戦う気力を失わせることにあったはずです。
しかし、結果は、”Remember Pearl Harbor “ という合言葉の下に、米国民を激昂させてしまい、まったく反対の結果を生みました。これを組織論の専門家が成功した作戦と評価するというのが信じられないのです。意思決定の問題を専門に扱う組織論の専門家は、この作戦を失敗として評価すべきなのです。
戦史研究者は、宣戦布告が攻撃の後になった結果、「卑怯なだまし討ち」になったので、作戦自体の責任ではないという見解をとりますが、それも明白な誤りです。
西部劇を観ていれば明らかですが、米国では先に銃を抜いた者が悪いのです。宣戦布告が事後的になったことが火に油を注いだことは疑いありませんが、たとえ計画のとおり攻撃開始の1時間前に米国に通知されていても、やはり先に銃を抜いている以上、彼らに大義を与えてしまったことは間違いありません。いずれにせよ、米国人はそれで戦意を失うような国民ではありません。米国駐在経験のある山本五十六連合艦隊司令長官やその幕僚たちがその程度のことを理解していなかったとすれば恐るべきことです。
このコラムは国際法の講義をするためのコラムではありませんので詳しくはそちらに譲りますが、国際法上宣戦布告を要求されたのは1907年のハーグ陸戦条約の規定によるものですが、1928年のパリ不戦条約において外交の手段としての戦争が禁じられた結果、宣戦布告手続きをしたところで国際紛争解決の手段として戦争に訴えた日本軍の攻撃は国際法違反の行為です。攻撃された米国は自衛権の発動として正義の戦いを行うことが出来ることになってしまうので、先に手を出してはならないのです。
百歩譲って、正式に事前の布告手続きがなされるべきであったとする見解に従うとしても、わざわざワシントンに暗号電報を送って翻訳させなくとも、東京の駐日米国大使を呼んで手渡せばよかっただけなのです。
戦闘に勝って、作戦に負けた典型的な例であり、社会科学の研究者ならばそのように評価しなければなりません。
この本のタイトルが『失敗の本質』なのが皮肉ですが、過去の事例の分析に失敗した典型的な研究でもあります。
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