住まいと騒音の「幸福学」
子どもの声は騒音か?
近隣住民からのクレームにより長野市の公園が廃止されるという報道がありました。こういうニュースでは、とかくクレームをつけた人に注意が向けられますが、現場は小学校・保育園・児童センターが集まった場所であり、近隣住民が生活をしている中で後から設けられた公園であることも関係しているようです。
少子化の世で、子供の遊び場所をなくすとは何事か!という声が全国から集まっていますが、維持管理の予算が厳しくなる中で、この公園では近隣住民が掃除や草刈りを行っていたそうです。立地上、大勢の子供が公園で走り回ることも多く、児童センターに迎えに来る親の車のアイドリングも酷かったとの話もあります。
この公園は、児童センターのオープンにあわせて、民間の土地に自治体が地代を払って運営を開始した「遊園地」だったそうです。開設の際の近隣説明にも問題があったのかもしれません。そもそも「子供の声が騒音である」という認識が完全に分かれている点、受益者と負担者の調整を自治体がとることが出来ていない点が目立ちました。
↑問題の「遊園地」周辺の環境(これは賑やかだったかもしれません)
気密・遮音にまつわる自己体験
現在の自宅の近くには小学校があります。娘たちの母校でもあります。鹿児島では珍しく、ここ最近児童数が増えている小学校です。私たち夫婦は小学生の声が聴こえる距離感が気に入っています。体育の授業や休み時間、夏のプールの時期にはキャーキャーと歓声が聴こえてくるのです。ああいう声を聴くと、子どもの頃のどきどきワクワクした感覚がよみがえってきて楽しくなってきます。ちょっと変わっているのかもしれませんが、少なくとも夫婦で一致している感覚です。
コロナの影響もあり、しばらく静かだった小学校からも徐々にキャーキャー聴こえ始めましたが、どうも音量が小さいのです。改めて見てみると、小学校の方角にある空き地に家が建ち始めてあっという間に完成、びっしり建ち並んでいました。自宅の窓からの景観的には全く影響はないのですが、小学校との間の「壁」となってしまい「黄色い歓声」があまり聴こえなくなったのです。
↑以前の小学校方向の空き地の様子(恒例の野焼きの場所になっていました)
↑最近の小学校方向の新築住宅の様子(小学校の歓声の聴こえ方が変わってしまうのですね)
近所の空き地は必ず変化するものです。家を建ててから20年近くも変わらなかった方が珍しいのですが、小学校からの歓声が小さくなったのは残念です。近所の人たちは「静かになってよかった」と思う人のほうが多いのかもしれませんが。
自宅の場合、いくつかの窓に低気密の木製建具がはまっていますので、窓を全部閉めても隙間が残ります。ですから、常に外の音も聞こえますし、家の中の音も多少は外に聞こえてしまっているようです。(以下、それを裏付ける現象です)
■「大くしゃみ」をしたら、隣の犬がびっくりして吠え始めた(のが聴こえる)
■道路の車の音・アスファルトを走る子どもの靴音が聴こえる
■鳥・猫・犬の遠吠えが聴こえる
■お寺の鐘・錦江湾の汽笛が聴こえる
■風が木の葉を揺らす音・屋根に降り注ぐ雨音が(窓から)聴こえる
↑この「のぼり」が登場すると窓を閉めていてもにぎやかになります(自宅前の道も地元のマラソンコースです)
↑開放的な木製建具の窓(反面、高気密の選択は望むべくもありません)
自宅では高気密な状態は選択できません。私たち夫婦にはそう問題ありませんが、住む人が変われば大問題かも知れません。花粉症の家族がいたりすると、窓の気密は最重要事項です。いっぽう、最近の高気密住宅では、気持ちのいい季節に窓を十分解放できないものも見受けられます。屋外のような室内空気と外の気配の好きな私たち夫婦にとって、これは大問題なのです。
外からの音に関して自宅では気にはしていませんが、住む場所や住む人によっては音のことが気になってしまう場合も多いでしょう。最近の新築住宅は脱炭素の流れもあって高気密ばやりです。性能は高いに越したことはありませんが、日常、条件によっては高気密の部屋で気持ち悪くなる時もあるのです。
気密が高いのに衛生的でなかったり、一度にパッと新鮮空気に入れ替えたいのに出来なかったりする時にそう思うのです。たまに毒ガス室のような部屋もあります(以下、強くそう思う場面)
■安めのビジネスホテルで窓の開かない部屋(臭いのにガバッと換気できない)
■高気密住宅の浴室・脱衣室(換気量が少なすぎてお風呂あがりに湿けすぎる)
■小さくて開かない窓ばかりのローコスト高気密住宅での息苦しさ&ペット臭
↑ビジネスホテルでこんな吹出口があるとゾッとします(すぐに窓の開閉を確認するのですが、ときには開かないことも)
選択性のある生活、豊かな人生
子供の頃の住まいは気密・断熱はおろかプライバシーすら怪しいものでした。物心ついた頃の住まいは「文化住宅」以前のアパートでした。風呂なし、トイレは共同で、お隣のお姉ちゃんによく連れていってもらった記憶があります。
その後に引っ越した「長屋」では、天井裏にはネズミや猫が走り回っていてほうきの柄で下から突っついたものです。また、隣の家のおばちゃんの見ているテレビが柱と壁の隙間から見えたりしました。今から思えばなんだか酷い住環境ですが、まだ子供だったせいか、その頃の住環境にネガティブな記憶はないのです。むしろ、家族以外の隣人との楽しげな思い出が今でもうっすら残っています。
高度成長期以降の日本人には一戸建で家族だけの住まいが憧れであり「共同」ではなく「個別」が望まれてきました。住宅がプラーベート化する過程を「発展の結果」「新しく良いこと」として生きてきたのです。しかし、超高齢化社会や極端な少子化を迎える現代ではいささか風向きが変わってきた面もあります。「個別」が進み過ぎて独居比率が著しく増えてしまった結果、社会保障の労力やコストが吸収できなくなってきました。
また、メンタル面でも孤独感が過度になってしまい、社会との繋がりの無さが問題視され始めました。一部では、あえて様々な世代の人たちによる「個別」から「共同」へといった生活環境の集団化・共有化が模索されています。多世代共生・参加型社会の実験的な取り組みが各地で見られます。そういった用途の建物では、意外に「プライバシー」より他人どうしの「気配」が重視されています。あえて、全く違った年代や目的を持つ者どうしの、適度な干渉が生まれる環境が大切にされているのです。
世の中は変わり続けていますが、曲がり角とも言える局面を迎えたようです。冒頭の公園の話もその現れのひとつかもしれません。
人間は多様な生き物です。自分が思っている「快適」が、他の人の「快適」と同じとは限らないのです。また、資産があっても不幸な人もいれば、資産がなくても幸福な人もいたりするのが人間の複雑さです。だからこそ、私たちが提供する住まいぐらいは「選択性」のあるものにしておきたいと思う訳です。
社長の会社では、住まいの外からの「音」どのような扱いをされていますか?「やっかいなもの」でしょうか?それとも「好ましいもの」でしょうか?
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